ー「宮澤・レーン事件」80周年特別展に寄せてー 写真でたどるレーン夫妻の物語と宮澤弘幸の青春の日々 学習資料No.10

「写真と資料でたどるレーン夫妻の物語」について                   ハロルド・M・レーンは、クエーカーの家庭に生まれ、その影響           の強 い大学で学び、職もフレンズ(クエーカーの別称)協会             事務局長とな りますが、第一次大戦の兵役では反戦平和主義の           立場で良心的兵役拒 否者として行動、フランスでの復興業務に            従事します。その後、日本 政府の公募に応じ北海道帝国大学予            科の教師として 1921 年 8 月に任 用されます。                 一方、アメリカンボードから派遣された宣教師 G・ローランド            の娘 ポーリンは京都で生まれ、父の札幌派遣に伴い 15 歳まで            を過します。 渡米して大学を卒業、24 歳で来日、札幌一中や           北海中学で 2 年ほど 教鞭を執ります。26 歳で渡米し大学同窓          生と結婚、一女をもうけま す。しかしその夫は早世し、残され             たポーリン親子は札幌の父母の元 に戻ります。 予科教師H・            レーンの寄宿先は G・ローランド宅で、二人は知り合 い 1922年4月に結婚、レーン夫妻の物語の始まりです。 夫妻は 6 人の娘達に恵まれます。戦前 20 年にわたる英文学と英語指 導の中で予科生 宮澤弘幸と深い交流を持ち、全く濡れ衣の外聴容疑者 一斉検挙で2 年にわたる獄中生活、苦難の交換船での帰米、戦後北海 道大学への再任用と波乱に満ちた生涯を送ります。夫妻は事件の苦難 を話す事はありませんでした。留学や論文作成で沢山の学生・教官が お世話になりました。

宮澤アルバムを読む~詩歌・添え書きを中心に―

宮澤が残した3冊のアルバム(2012年10月と2014年5月に北大に           寄贈、現在北大文書館所蔵)の内容から弘幸の人間像に迫りました。                           宮澤アルバムの空いたスペースには、写真から連想される80句           ほどの自作の短歌の他、俳句、詩、添え書きなどが書き込まれて           います。また弘幸が描いたと思われる地図や挿絵も随所に見られ           ます。与謝野寛・晶子、島崎藤村、ダンテ、ニーチェなど古今東           西を問わず、多くの歌人、詩人、作家、哲学者等の作品が引用さ            れています。                                 弘幸は1937(昭和12)年に北大予科工類に入学し、間もなく文武           会の活動を始め、弁論部、講演部でも活躍していました。古典研          究会、哲学研究会なども作って勉学したそうです。北大構内、大           学の牧場、札幌市内の風景を歌や詩にしています。また、自然を           愛し、旅行、登山、スキーを好みました。札幌近郊の小樽や道東           阿寒、遠くは樺太へ旅し、手稲山・富良野・ニセコへはスキーに          行きました。特に親しい友人であったイタリア人留学生マライー            ニとその家族への愛情あふれる作品も印象的です。アイヌにも深            い想いを抱きました。総じて、アルバムの詩や短歌には彼の豊か           な感性と文学的素養が反映されています。自作の詩や短歌は自然            を美しく浪漫的に歌い上げるほか、自分の生を投影して省察する           など青春の純粋な気持の動きを読み取ることができます。他方彼           は広く世界に目を向け、貪欲にいろんなことを学びました。とら           われない目で様々な物事を探求する、いわば自立した思考、自由             な思想を持つ学生だったと思われます。                             アルバムは情熱的に駆け続けた弘幸の短い生涯を象徴的に物語っ           ています。