―戦争(戦時体制)が生んだ若き北大生の悲劇-

Q1 開戦の日の朝、突然の検挙…なぜ?

1941年12月8日、太平洋戦争開戦の朝、特高警察は全国一斉検挙を実施、
北海道では北大予科英語教師ハロルド・レーン、ポーリン・レーンさん夫妻、とその教え子の工学部2年宮澤弘幸さんら合わせて10人余りを軍機保護法違反で検挙したのです。いったい、どうしてでしょうか?
当時北大では英語のレーン夫妻の他、ドイツ語のへルマン・ヘッカー、フランス語の太黒マチルド、イタリア人のフォスコ・マライーニらの先生が教鞭をとっており、向学心にあふれた学生たちは次第に彼らのもとに集うようになりました。その集まりは「心の会(ソシエテ・ドュ・クール)」と名付られ、国籍や立場の違いを超えて深い友情と人間的な信頼に結ばれ、学問の真理追求の精神を育んでいったのです。日米開戦が近づく中、外国人に対する特高の監視も厳しくなり外国人教師と学生の交流の場「心の会」までが狙われたのです。

「心の会」発足記念写真。一列目右端が宮澤弘幸、隣ハロルド・レーン、その前ポーリン・レーン

Q2 どうしてこれがスパイなの?

宮澤さんが「軍機」を「探知」しレーン夫妻に「漏泄」した、レーン夫妻はそれを「探知」しアメリカ側に「漏泄」した、つまりそれぞれがスパイ行為を働いたというのです。ところが、その内実は、宮澤さんがたまたま旅行先で見聞したことを、茶飲み話としてレーン夫妻に話したにすぎません。それらは樺太・千島および道東・道北の港・灯台・飛行場など黙っていても目に入ること、誰もが知っていることでした。
宮澤さんは一貫して無実を主張しましたが、軍機保護法は公知の事実でも、軍が秘密といえば秘密だというのです。こんな事が許されるでしょうか?

Q3 なぜそんなに重い刑罰が?

宮澤とハロルドは懲役15年、ポーリンは12年の重い刑罰を科されました。軍機保護法拘束者には不起訴や執行猶予刑も多い中、この量刑はゾルゲ事件(1941年、日本を舞台にした大規模な国際スパイ事件。ドイツ人ゾルゲ、尾崎秀実が死刑になった)に次いで重いものでした。
なぜこんなに重かったのでしょう。考えられることは、敵国人との交流に対する「みせしめ」、言い換えると「心の会」の交流・思想を危険とみなして罰したこと、また知りえた情報は公知の事実でしたが、結果的に千島・樺太、満州など「前線」のものであったこと、さらには捕虜交換を見越して重刑を科したことなどが考えられています。

Q4 宮澤弘幸はどんな学生だったの?

宮澤は必ずしも戦争に反対していたわけではありません。当時の多くの青年と同じような愛国青年で、卒業後海軍に入ることも決まっていました。しかし、宮澤さんは、権威を恐れず何よりも事実に忠実な青年でした。知的好奇心が強くアイヌなどの少数民族にも強い関心を持ちました。また旅行好きで、北海道各地を巡り、千島、樺太を旅行し、南満州鉄道の論文募集に応募して合格、満州にも旅行しました。

イタリア人の研究者マライーニとはともに山が好きで北海道の山々を共に登り、冬山登山のためのイグルーの実験をし、論文を書いた。彼は戦後、弘幸は山登りの良きパートナーであるだけではなく、大変聡明で博学な青年で彼と歴史哲学、宗教など諸々の事柄について語り合うのが楽しみだった、彼は西洋文明の重要性を十分認識する傍ら常に和魂洋才の精神の持ち主だった、と戦後記しています。
外国語を学び、その知識を広げていて、英語についてはレーン夫妻に学び、旅行のことなどを話したり、レーン一家とサイクリングに行ったり、親交を深めていました。

イタリア人研究者マライーニたちとアイヌ部落で
登山
レーン一家とサイクリングに
ポーリンと娘たちと一緒に

1941年12月8日、日米開戦を知った直後のこと、宮澤さんは早朝レーン家を訪れ「戦争は国と国との間の出来事、私とレーン先生との間の出来事ではありません。私は先生一家に対する信義を守り続けます。何か困難なことが起こったら私に教えて下さい。私はその解決のために尽力します」と伝えたと言われています(妹美江子さん証言)。しかしその後宮澤さんもレーン夫妻も特高に検挙されたのです。

Q5 宮澤さんはその後どうなったの?

希望に満ちた北大での生活も卒業後の夢も無残に打ち砕かれてしまいました。権威を恐れない自立的人格の宮澤さんへの拷問による取り調べ、そして酷寒の網走監獄への投獄……。宮澤さんの体はボロボロとなり、結核にも罹患、1945年10月に釈放された時は別人のように痩せ衰えていました。しかし北大に復学願を出し、留学も考えていましたが、結核が進行し、1947年2月22日にわずか27歳で亡くなったのです。可能性に満ちた宮澤さんの人生は幕を閉じられました。

Q6 レーン夫妻の場合はどうだったの?

ハロルドさんは非戦平和のクエーカー教徒でした。大学を卒業後のクエーカー活動に参加し、米陸軍基地に召集されたが、軍事労働に関与しない姿勢を貫いた。1919年にはフランスで1年戦後復興に従事。1921年に北大予科の英語教師として来日。アメリカンボードの宣教師ジョージ・ローランド宅に身を寄せた。そこには娘のポーリンがアメリカで夫を亡くし娘と一緒におり、やがて1922年ハロルドはローリンと結婚。ポーリンさんもいくつかの学校で教えました。そして自宅官舎を学生たちとの交流の場に開放しました。検挙されて札幌の大通拘置所に収監され、無実の主張にも関わらず上告審で15年、12年の刑罰が言い渡されて服役。しかし間もなく、レーン夫妻は日米の捕虜交換船で帰国しました。
戦後1951年に再び北大に招聘されて教鞭をとりました。
学生や北海道民に対する夫妻の思いやりは戦前と変わることはなく、多くの人々に慕われ
ました。しかしスパイ冤罪事件のことには口を閉ざしたままで、そのことを知る人もほとんどいませんでした。

レーン夫妻

Q7家族の苦しみ…断ち切られた絆…

宮澤弘幸さんの両親は息子の検挙を知り、札幌に駆けつけて事件のことを尋ねまわりました。しかし、軍機にかかわることには誰も口を閉ざして答えてくれません。思い余って北大総長の自宅を訪ね、当局に事情を聞いてほしいと嘆願しましたが拒否されます。
宮澤家の家族は「スパイの家族」のレッテルを 貼られ、言い知れぬ苦しみを味わいました。そして息子が検挙されたのはレーン夫妻のせいだと思ってきました。戦後再び北大に戻ってきたレーン夫妻は真っ先に宮澤家を訪れますが、二度と来てくれるなと追い返されます。軍機保護法は人間の絆までも断ち切ったのです。
1967年、国家秘密法(当時)制定反対の運動の中でようやく真相が明らかになります。事件後半世紀もたっていました。妹の秋間美江子さんは、円山墓地に眠るレーン夫妻に誤解を伝え、その非を詫びたのでした。

宮澤一家 妹美江子 父 弘幸 弟晃