つどい2部~宮澤弘幸のアルバムから~アルバムが語る宮澤弘幸 

アルバムが語る宮澤弘幸       報告 中原豊司

はじめに

宮澤弘幸は生前3冊のアルバムを残しました。1冊目が予科時代、2冊目が工学部時代とその他、そして3冊目が家族です。弘幸の逮捕時たまたま友人宅にあって押収を免れました。妹秋間美江子さんが2012年に北大に寄贈し、現在は文書館に保管されています。今日はこのアルバムの全体を紹介し、宮澤の青春とは何であったのかを考えてみたいと思います。                                                            1.北大に入学してからの弘幸は、何でも見てやろうという気持ちで学生生活を謳歌しました。友人達との旅行や登山・スキー、また文武会でも理事に推挙され文化講演活動に活躍しました。アルバム写真には、数多くの添書きや自作短歌や引用また絵はがきなども貼付され多彩な情報が盛られています。

2.英語が得意だった弘幸は外国人教員の官舎やヘッカー宅を訪ね、レーン夫妻との交流、「心の会」での繋がりを通して興味、関心を大きく広げました。特にマライーニが来てから(38年12月)は本格的に冬山や岩登りも手がけ、北大山岳部のペテガリ遭難を契機に、本邦初のイグルー作りを実践し、後に一家と同居するまでになります。

3.アイヌ研究者であったマライーニとは平取二風谷を自転車でめぐり襟裳岬を越えています。少数民族への関心は海軍の樺太大泊での勤労体験後に、オタスの杜まで足を伸ばすなど、貴重な写真を残しています。

4.工学部に入学(40年)してから活動は大きく広がりアテネさっぽろでの仏語講座創設に関わって第1回講師を務め、1940年満鉄の懸賞論文に入選、8月、1カ月に及ぶ満洲旅行をしました。帰国後すぐにマライーニと穂高~槍が岳登山、翌年1月には満州旅行報告会、3月には習志野で開催された戦車学校にも参加しています。

5.運命の41年、弘幸は6月に二風谷を訪ね、7月伝手を頼って再度の千島、樺太旅行、8月にも再度の満州・大陸旅行に単独で出かけます。この旅行の意図は何だったのか、アルバムには明確な情報はありません。迫る戦争の足音の中、11月母とヘッカー宅を訪問、そして12月8日の全国一斉検挙で獄に繋がれます。

6.3冊目のアルバムは家族関係、北大入学前の写真です。毎年1月に家族の記念写真を撮っていますが、1942年以降そこに弘幸がいないのは痛々しさすら感じさせます。

終わりに

不当な逮捕、スパイ容疑は冤罪であることは今日では明らかです。アルバムに残された弘幸の青春の多彩な活動と交友・交流の記録は、冤罪の不当性を雄弁に物語っていると思われます。