つどい2部~宮澤弘幸のアルバムから~宮澤弘幸は満州(満洲)で何を見たのか

宮澤弘幸は満州(満洲)で何を見たのか 報告 北明邦雄        

  山を愛し文学にいそしみ、貪欲に学び、学生生活を謳歌していた宮澤弘幸。その未来は無残にも27歳で断ち切られてしまった。

 1940年5月、宮澤は満鉄の懸賞論文に当選し学生10名と1か月間満州を見て回った。その時の見聞が「満州を巡りて」と題し3回にわたって『北海道帝国大学新聞』に連載された。それを読むと宮澤のものを見る目の確かさがわかる。

 1931年に関東軍は満州事変を引き起こし、翌年満州国を建国した。中国侵略の開始である。政府は昭和恐慌で疲弊した農村の過剰人口を開拓名目に満州へ送り込んだ。

 満州に足を踏み入れた宮澤は事態の本質を鋭く見抜いた。曰く、満州帝国は独立国にあらず、混乱と焦燥の満州、と。そして羅津開発、弥栄村、民族協和等々が抱える問題を具体的に指摘した。さらに農業の機械化と電化の重要性を主張した。いっぽう彼の視線の奥には、無欲に「聖鍬を振う」開拓農民に対する限りない優しさがあった。それは創作「朝から朝まで」に遺憾なく表現されている。

 宮澤は満州で見聞したことを踏まえ応募論文「大陸一貫鐡道論」に手を入れて発表した。しかし、それでもなおツメなければならない点を自覚していたのであろう、翌1941年8月に単身中国大陸に渡った。日ソ関係が一段と緊迫し日米関係も悪化の一途をたどる頃であった。

 帰国後この旅で見たことをいわば茶飲み話としてレーン夫妻に語った。それが軍機保護法違反、探知と漏えいのスパイ罪にあたるとされたのである。時代の波頭に立つ宮澤の生き方、それは同時に様々な危険と裏表であった。